NEXT (リー・タマホリ) ★★★1/2

ゲームの映画化はなぜ失敗するのか?
もちろん興行的に成功した作品はあるし、映画として面白い物もある。が、今回はそういうレベルの話ではなく、あくまで「ゲーム」そのものが描かれていて偏屈なゲームファンも納得できる映画化ということで、残念ながらそのレベルに達した映画はまだないといっていい。
一ゲーム好きとしてその理由をたまーに考えているんだが、最近は「主人公を間違えて設定しているから」という結論に達した。
例えば「スーパーマリオ」を映画化すれば、主人公はマリオになる。もちろんこれは当然だが、映画で描かれるのはつまるところ、最終面まで進みクッパを倒し無事にピーチ姫を救出したマリオ一匹(一人?)だけである。が、ゲーム好きなら(いやそうでなくても)分かるとおり、世に生息する大多数のマリオはピーチ姫を救出することなど叶わず、クリボーやノコノコ等の雑魚相手にプレイヤーの単純な操作ミスが原因で無残にも命を落としているのだ(もしくは谷底に足を滑らせ永遠に空間を落ち続ける)。そういう訳でキノコ王国には現在何十億、何百億ものマリオの死体があふれ返っており、当然キノコやフラワーはそんな死体を養分として育っているので、ある意味共食いというこの世の地獄である。そんな有様を丸ごと描いてこそ真のゲームの映画化といえるのではないか、というのが結論なのだがもちろんそんなのどう映画化すりゃいいんだ、とモンモンとしていたところ、なんとこの模範解答の一つが、ゲーム原作ではないもののこの"NEXT"では示されていたのだ。

※※※ 以下ネタバレ ※※※


そのシーンとはもちろん、終盤ニコラス・ケイジがどんどん分裂して敵の本拠地を探索していくシーンで、ああこんなマヌケなシンプルな表現で俺の願望が叶うのだ、と大変感動した。惜しむらくはあの後、正解のニコラス・ケイジ以外が全員死ねば俺の思い描いた感じにより近付くんだが(まあ、その後全員死ぬといえば死ぬが)、まだ第一歩なのでそこまでは望むまい。
で、思い返すとこの映画、この他にもゲームの映画化として優れている場面がかなりあって、冒頭のカジノでの逃亡劇、そして中盤の崖降りシークエンスにおける「2分先を知ることができる」設定を利用したアクションシーンの数々は、「主観視点以外の情報を利用し危機を回避する」という点で、FPS等を除くゲームの一般的な回避行動(敵の配置を完全に覚えた上での攻略等)を見事に再現している。他、カジノで強盗を予知して先制攻撃をしかけるケイジは、「この敵をこのターン内に倒さないとリンダが殺される!」と何度もリセットしながらファイアー・エムブレム(初代しかやってないんだが)をやってた頃の俺そのままだ。
そしてニコラス・ケイジがヒロインであるジェシカ・ビールを口説く場面は、どの口説き文句が一番好感度が上がるか、何度も何度もリセットし直すという驚愕のギャルゲーナンパシークエンス完全再現。しかもこの間、ジェシカ・ビールが何度もリセットするケイジに「リセットし過ぎ」を突っ込むリセット君(「どうぶつの森」参照)になるという、映画の設定を根底から覆すカットがあるのだが(これはジェシカ・ビールもケイジと同じ能力を持っているということにしないと説明できないが、この後の展開からジェシカ・ビールにそのような能力が無いことは明らか)、これもゲームとして考えればその時フラグが立ってヒロインの設定が異なるサブシナリオに一瞬移行したものの、主人公ケイジが「俺まだ本編終わってねえから先にそっちやるよ」と元々のシナリオに戻るためリセットした、と考えれば見事に説明できる。
ラストの大抵の人が失笑する大リセットも、ゲームとして考えれば、つまるところ序盤の選択肢を間違えていたために真のエンディングを向かえることができなかったというものだが、俺のようなぬるいゲーマーにとって、もう一回ゲームを最初からやり直さなければいけない、という状態は激しい後悔で身が悶える物であって、今までの経験からいうと、そういった場合大抵ゲームそのものを自分はやめる。そういう意味では大変酷薄なエンディングだということは一ゲーマーとして証言して置きたい。

※※※ ネタバレ終了 ※※※

という訳で世間一般には、落ち目のハゲと女装野郎が作ったと思ってあまり見に行く気が起きない映画かも知れないが(そう思ってる人はむしろ見に行く人か)、タイトルに嘘偽り無くゲーム映画の"NEXT"が描かれている問題作である。