DRAGONBALL EVOLUTION (ジェームズ・ウォン) ★1/2

「映画とは壁である」と言ったのは押井守だったが、今作を映画館で見るということは、まさにスクリーンにぶつかり跳ね返ってきた自分の「ドラゴンボール」に対する思いを確認する行為である。
映画を見る前、そして見た後、これまでの人生で一番長い間「ドラゴンボール」について私は考えることになったが、たどり着いた結論は自分にとって「ドラゴンボール」とは「イノセンス礼賛」の物語だ、ということであった。
悟空は初登場のその瞬間から、無垢で無邪気で無知というイノセントな存在として描かれ、それは最終回まで変わらない。そして一番大事なことは、このドラゴンボールの世界ではイノセンスと強さが完全にイコールとして描かれているという事実。これは悪役を強さの順で並べれば一目瞭然であるが、

ピラフ大王<レッドリボン軍<ピッコロ大魔王<ベジータフリーザ(最終形態)<人造人間<魔人ブウ


より強い敵とは、よりイノセントな存在であり、ほぼ完全に白痴な魔人ブウが最後の敵となったのはどう考えても必然である。そう考えれば物語中にたびたび子供が親より強くなっちゃうことも必然であり、悟空が敵にとどめをささない事が多々あるのも、単にキャラクターを使いまわすためではなく、「正義」のためにとどめをさしちゃうと悟空が弱くなってしまうからという必然である。


何がいいたいのかと言うと、この原理原則が守られていないこの映画は自分にとって根本の所で「ドラゴンボール」ではないのだ。「第1のルール ルールは無い」とこの映画の悟空はのたまうが、残念ながら「ドラゴンボール」には確かにルールが存在する。もしかしたら制作陣はそこまで分かっているものの、innocenceをvirginityと解釈したのかもしれないが、映画の悟空はどう考えても只の童貞、煩悩まみれマスかき野郎である。はっきり言うが、俺の知ってる悟空は夢精しかしないし、その夢もまさに戦闘中、今殺される瞬間!とかに決まってるのだ。
実は悟空が学生という設定には、「転校初日にチチの股をとりあえずパンパンする」シーンでも入れれば(ムリですか)原作よりも効果的に悟空のイノセンス=強さを表現することが出来るのではないか、とちょっと妄想したりしていたので、まさによくあるアメリカ映画の童貞として描かれた序盤には本当ガッカリした。


が、あえてここからこの映画を擁護すると、この学校エピソードの元となったと思われる、原作マンガ「孫悟飯のスーパーサイヤマン」エピソードでは、孫悟空の死後、それまでの「イノセンス=強さ」の原則を作者鳥山明自身が崩そうとしたふしがそこかしこに見られるので(結局上手くいかず、その後悟飯はあまり活躍しなくなる。他、上の表で書かなかったセルもその法則を壊そうとした敵キャラだと思うんだが、これまた思ったほど上手くいかなかったので、ラストボスとして魔人ブウができた、というのが俺の妄想)、鳥山明が果たせなかった思いを映画のスタッフがなんとか再現しようとして自爆した、と前向きに捕えることも可能かもしれない。無理かもしれない。